原始

点と点が繋がって線になる感覚ってあるなあと思います。

でも残念なのは、線になった!という記憶だけが残り、

内容をすぐに忘れてしまうことw意味なしw

 

こないだ、姉がたまたま綾取りを持ってて、

何か技を繰り出そうとしたが、何一つとして覚えていなかった・・・

でも、姉は箒を覚えていた!天才かと思った。

自分は忘れやすい方だと思う。いろいろなことを。

 

圧倒的に本を読むのが苦手・・・

語彙力がなかったりとか、読解のトレーニングを積んだ経験がなくここまで来たとか、

単純に本を全然読んでないとか・・・

 

そんなような理由で、目と耳から得るタイプです☆

 

というか、文字って記号だし、理解するには脳内で変換しないとならないから、

理解するのに時間がかかるのは当然か・・・

 

本人を目の前にして、その人の全体から、

何を言わんとしてるのかを感じ取ることは、比較的できるかも?

いや、できてると錯覚してるだけで、ほんとは全然わかってないという

残念な時のが多いけど・・・

 

今回、人間の本質が、そのまま宗教に結びついているということを強く感じることができました。

無いものをあると考えること。

過去や未来という概念を持つこと。

 

疑問なのは、なぜ、そういう能力を持つように進化してきたのだろうか、

ということだ。

お釈迦様的には、物事のあるがままを見て、今・ここに集中せよと、

チンパンジー寄りの意識になりなさいという事なのか?

 

でも、大乗仏教運動が出てきたというのは、

これまたチンパンジーと比較すると分かる気がするのだが・・・

やっぱり、人間は人間で、ある意味、生きることに関しては天才的な

チンパンジーにはなり切れなかったということなのかもしれない・・・と思った。

結局は、生得的に他者に与える資質を持っているのが、

人間だと聞いて、なるほどなあと・・・

大乗仏教の利他の思想・菩薩思想じゃないか!?

 

つまり、最初は天才的なチンパンジー的な悟りを目指したけれど、

やっぱり人間は、他者に与えずにはいられない?という性質を持っているのではないか、だから人間の利他要素を大乗仏教が加えて、

人間寄りに若干修正したということなのか??

 

親が子供に何か食べ物を与えても、子供は親に食べ物を分けようとする、

というのは、とてもよく理解できるエピソードでした。

 

つまり、分け与えないと不安??なのか??

 

そこで、私は悩む・・・なぜなら、分け与えるのが苦手だからだ・・・

よくファミレスでそれぞれが食べたいデザートを頼む。

私は、交換しなくても平気。

むしろ、自分で注文したものは、自分でコンプリートしたいw

でも、きっと、ちょっと食べる?って聞けるのが、人間らしさなんだろうと思います(笑)今回、色々な面で、もしかしたら自分はチンパンジー寄りの意識を持っているのかもしれない・・・という疑惑が沸きました。

ま~、あれですよ、本質は、ちょっと食べる?って言うタイプです。

でも、いろんなどうでもいいことをゴチャゴチャ考えて、言い出せない、っていう性格だ、ということを弁解しておきたいw

 

分け与えないと不安?というのは、

人間の生存率を上げるためにそういう風にプログラミングされてきたんだろうと思うのだが、人間社会の基本は、分業にあるのかなあ・・・

効率悪いもんね。自分で獲ったものを自分で食べるのは。

それより誰かに獲りに行ってもらって、みんなで分ける。

いかに体力を温存して、最大限の効果を生むか。

実は原始時代から、何一つとしてかわってないんじゃないかと思いました。

 

でも、なんで「ないものをある」とみるのか。

過去や未来という概念を持つに至ったのかについては、知りたい!

そういう研究、すでにたくさんあるんでしょうね・・・

知らないだけで(汗)

人間の日常はすべて「信じること」で成り立っている。っていうのも

本当にそのとおりで、、、

そこんところが解明できれば、自然と宗教の根本?も解明されるのだと

単純な私は思ってしまうのであった。

 

どうしても人間の本質に迫ろうとすると、原始へ変えらざるをえないのではないか。

プリミティブな原始社会のイメージではなく、

人間が2足歩行した辺りから。。。

 

そこまでさかのぼると、今議論されているあらゆることも、

全て、スッと腑に落ちるような感覚もあるような。

 

全ては、人間の「ないものをある」ようにみてしまう性質に還元されるだけなのか??

 

だけど、そこを意識しておくと、

何か変な森へ行ってしまいそうになったら、立ち返れるような気もしました。